こんにちは、Vollmondで過去に講師をしていたYuyaと申します!
私は現在、大学院の博士課程に在籍しており、ドイツの教育に関する思想の研究をおこなっております。
この記事では私がドイツ語を学び始めたきっかけや、教育学研究者を志すようになったきっかけ、ドイツ語と教育学の研究がなぜ繋がっているのかなどを書いていこうと思っております。
ドイツ語の学習がその後どのような形でその人の中で生きるかは人それぞれだと思いますが、一例として私の経験がどなたかの参考になれば大変嬉しく思います!
目次
年 | 出来事 |
---|---|
2016 | ドイツ文学科入学 ドイツ語を学び始める |
2018. 4 – 2019. 4 | ケルン大学へ交換留学 |
2019. 8 | Goethe C1 取得 |
2020. 4 | 教育学へ転向し、修士課程入学 |
2020 – 2022 | Vollmondドイツ語講師 |
2022. 4 | 博士課程入学 |
ドイツ語を学習している、もしくは学習しようと考えているみなさんはどのような理由、背景からドイツ語を学習しようと思ったのでしょうか。
私の場合、ドイツ語の学習へと向かうきっかけとなったのは、現在の教育学の研究からは程遠いもの、そして多くの人にとってもそこまで馴染み深くはないものでした…
それは、万年筆です!
ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、ドイツ語圏にはたくさんの万年筆、筆記具の有名なメーカーがあります。
Montblanc, Pelikan, LAMY, Staedtler, Caran d’Ache, Kaweco, Faber Castellなどなど…
(なぜ私が万年筆を好きなの…それは語り始めるとキリがありませんので語りたい気持ちをグッと堪えてここでは割愛します…)
そこから「ドイツ語圏の万年筆のメーカーで働きたい!」「せっかく働くならドイツ語を覚えて現地で働きたい!」という気持ちが芽生え、ドイツ語を勉強しようと思い始めました。
私が大学に入学したのは2016年でしたが、高校3年生の2015年の夏には「文系学部廃止」の報道が世間を駆け巡っておりました。
そんななか「ドイツ語を勉強したい!」「ドイツで働くためにはドイツの文化も知っておかないと!」という理由から、私は大学でドイツ文学を専攻することにしました。
現在の教育学の研究とドイツ語、ドイツ文学の勉強はなかなか直接結び付かないように見えるかもしれません。
ここではドイツ語の学習とそこからなぜ教育学の研究へと進むことになったのかを、三つのきっかけとともにご紹介したいと思います。
大学三年生の時にドイツのケルンで1年間の交換留学を行いました。
ケルンで学んだことの一つ目は何よりもドイツ語です。
とにかくドイツ人の友達たちと毎日遊び、たくさん旅行もしたことで、帰国してゲーテのC1を取得することができるほどにドイツ語能力は成長しました。
学んだ、もしくは改めて気づかされた二つ目のことは、自分の意見のなさ、自分で考えることの苦手さです。
留学をした多くの人たちが口にすることかもしれませんが、議論文化の中にいるドイツの大学生と話す中で、自分の意見のなさ、自分で考えることの少なさを実感しました。
そんな中で、とりわけ文系学部廃止の報道の影響もあり、高校生の時に大学で自律的に学ぶとは一体どのようなことなのか疑問に思っていたことが改めて思い返されました。
帰国後、大学の授業でドイツの抒情詩の授業を受けました。
詩は言葉がどこか不自然に並べられているし、言葉足らずだし、どこか読みづらい。
読んでもあまり意味がわからない、場合によっては情景も浮かばない。
元々詩に対してはそんなイメージが詩に対してはありました。
しかし詩の中で置かれている言葉、その言葉の形、配置、音、リズム、それらはそれぞれ、なんらかの意味を持ってそこに置かれています。
そこに込められている意味は、ただなんとなく言葉を眺めているだけでは捉えることができず、その言葉の前で立ち止まり考えなければ立ち現れてきてくれません。
しかしその意味を少しでも捉えることができると、短い詩から信じることのできないほどの意味が立ち上がってきます。
その経験は私にとってはほとんど感動に近いものでした。
この経験によってドイツの精神世界へと誘われることとなりました。
ドイツ語を学んだことで知ることができた世界であり、私にとってこの世界はとても大事な世界になりました。
そこからさらにドイツの中で「自ら考える」ということが一つの中心的な問題となった18世紀のドイツの哲学に惹かれるようになりました。
「ドイツ哲学を通じて「自ら考える」ことについて研究したい!」という思いが湧いてきたのです。
それを教育学で研究するというと不思議に思われるかもしれません。
教育学は学校の先生を育成する場所、教育学はどうしたら上手く教えられるのか、学校では何が教えられるべきなのかを研究する学問というイメージも強いかもしれません。
けれども教育学の領域はそれだけではありません。
私の研究領域である教育哲学では、教育学は「人間形成」の学であるとよく言われます。
人間がさまざまな環境の中で生き、生活をすることで、その環境との相互作用を引き起こし、その中で変化し、生成する。
そうした広い意味での「人間形成」が教育学の対象になります。
そしてここでいう「人間形成」は、ドイツ思想の中で作り上げられたてきた „Bildung“ という言葉の翻訳語でもあります。
「自ら考える」ということが私たちが生き、生成変化していく上でいかなる意味を持つのか。
私たちはいかにして「自ら考える」ということへと誘われるのか。
そして何よりも「教える」ということと「自ら考える」ということはいかなる関係にあるのか。
これらをドイツの思想の中で考えることができる場所こそ、私にとっては教育学研究という場所でした。
こうして現在は教育学の博士課程に在籍しながら、ドイツの教育思想を中心とした研究をおこなっております。
研究に関わるどの活動でもドイツ語を使い続ける毎日で、今思えば万年筆の会社で働きたいという気持ちが現在の研究と繋がっていると思うと不思議な感覚がします。
けれどもこう振り返るとドイツ語との出会いが、私の人生に大きな影響を与え、そして支え続けてきたんだなと感じる限りです。
まさにドイツ語の学習との中で「人間形成」(Bildung)が生じていたと実感しております。
エミネ・セヴギ・ウツダマー(Emine Sevgi Özdamar)というトルコ出身の作家の自伝的小説Die Brücke vom Goldenen Horn (1998, Kiepenhauer & Witsch) の中に次のような言葉があります。
„Sie hat Deutsch gelernt. Eine Sprache ist ein Mensch, zwei Sprachen sind zwei Menschen.“
(Özdamar, E. S. Die Brücke vom Goldenen Horn, Köln, Kiepenhauer & Witsch, 1998, S. 173. )
「彼女はドイツ語を学んだ。一つの言語は一人の人間、二つの言語は二人の人間。」
(調べてみると後半の文はトルコ語の慣用句らしいです)
言語を学ぶことによって学ばれることは様々でしょう。
場合によっては、それによりアイデンティティ(自己同一性)が危機に陥ることもありえます。
しかし自己同一性が危機に陥るということは、今までの自分の世界が何か別の世界、そして新たな自己へと開かれているということでもあります。
そこにこそ「人間形成」が生じるとも言えるでしょう。
ドイツ語の学習がいつどのような形で自分にとって意味をなすかは分かりません。
けれどもドイツ語を学習することで、そしてドイツ語の前で立ち止まって考えることで何か開けてくる世界があるかもしれません。
ぜひ、少しでもドイツ語に関心がある方は、ドイツ語の学習を始めてみてほしいと思います!
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